EUの水素戦略
2020年7月8日、欧州委員会はEU水素戦略(EU Hydrogen Strategy)を発表した。同戦略の基本骨子を記載した政策文書は23ページに及び、水素は「欧州グリーンディールと欧州のエネルギー転換を達成するための重要な優先事項」と位置づけられ、「水素の生産工程を脱炭素化し、化石燃料の代替エネルギー源として利用の拡大を目指す」としている。
本稿では、普段あまり語られることのない、エネルギー転換における水素をめぐる欧州内での議論について記載する。
EU水素戦略において欧州政府が最も推進するのは、再生可能エネルギーを利用して水を電気分解して生成する水素であり、それらは「グリーン水素」と定義されている。
また、同戦略は、天然ガス(主にメタン成分の水蒸気改質反応:SMR(Steam Methane Reforming ))から生成される低炭素水素の有用性も認めている。それらは生成過程で発生する二酸化炭素の取り扱いにより細かく分類(色分け)されているが、本稿では、メタンを水蒸気改質(SRM)するものを、分かり易く「ブルー水素」としてまとめて定義している。
EU水素戦略は、3つのフェーズに分かれており、大まかな内容としては以下のとおりである。
フェーズ1(2020-2024年):
既存の水素生産を脱炭素化し、新しい用途向けに生産を促進する。2024年までにEUに少なくとも6 GW(現在は約1GW)の水素電解槽を設置し、最大100万トンの再生可能水素を生産する。
フェーズ2(2024-2030):
2030年までに少なくとも40 GWの再生可能水素電解槽を設置し、EUで最大1,000万トンの持続可能な水素を生産する。生産した水素の利用は、製鋼、トラック、鉄道および一部の海上輸送を含む新しい産業セクターに徐々に拡大し、利用者又は再生可能エネルギー源の近くで生成する。
フェーズ3(2030年以降、2050年に向けて):
再生可能な水素技術が成熟に達する。脱炭素化が困難な産業セクター向けに大規模に展開する。
欧州政府は、水素生成への支援が必要なことを強調しており、水素エネルギー利用を促進するための援助スキームがいくつか検討されている。それらには、EU排出権取引システム(ETS)の改正による水素の奨励、EU ETSイノベーションファンドの活用、補助金の一種である差金決済取引(Carbon Contracts for Differences: CCfD)の導入が含まれている。
科学者による懐疑的な見解
一方、発表されたEU水素戦略に対して、科学者の間ではいくつかの懐疑論が続いている。
まず、一貫してEU水素戦略に疑問を呈しているのが、「ヨーロピアン・サイエンティスト( European Scientist)」という科学の専門家集団によって運営されているウェブサイトである。
彼らの目的は、エネルギー、環境保護、農業、データおよび公衆衛生に関して、偏見や政治的意図を除き、化学、物理学、生物学、天文学などのハードサイエンス、研究、そして客観的な事実に焦点を当てた議論をすることにある。また、政治的意図により複雑化する科学的議論の背景を明確にし、それらに対する研究者や専門家の意見を掲載することである。
グリーン水素生成に関する化学、物理学的な詳細については、下記のリンクを参照頂きたいが、ヨーロピアン・サイエンティストによる主張の基本的な概要は、以下のとおりである。
水を電気分解して水素を生成するグリーン水素の場合、天然ガスのメタンを改質して生成するブルー水素の4.5倍のエネルギーが必要になる。これは、エンタルピー(熱含量:定圧下における物質の発熱・吸熱挙動にかかわる状態量)の単純な計算上の数値であり、実際の工程で必要なエネルギー量は、これを上回る。
EUの輸送部門のみのエネルギーを水素に転換すると仮定した場合でも、単に水素を生成するためだけで、原子力発電なら現在の6倍、風力発電なら12倍、太陽光発電なら24倍のエネルギーが必要な計算になる。
さらに、使用する電解槽は、電力のピーク時に合わせて容量を確保するため、曇りの日や風の穏やかな日の製造可能容量の4~6倍の大きさが必要になる。しかもそれらの電解槽は、ピーク時以外は能力のほとんどを使わない状態、つまり非常に非効率な状態で運用しなければならない。
メタン改質で水素を生成し燃焼する場合は、まずメタン改質の工程でエネルギーを使う。その後生成した水素を燃焼させた場合に得られるエネルギーから、メタン改質の工程で使用したエネルギーを引いた量は、元のメタンを直接燃焼させるエネルギーと同一になる。これは、エンタルピー熱反応の基本的な定理である。
メタンの水蒸気改質反応の効率は、実際には100%未満であり、さらに水素の運搬や保管などに必要なエネルギーまで考慮した場合、メタン(天然ガス)を直接燃焼させた方が、はるかにエネルギー効率が良い。メタン改質に使うエネルギーも、直接別に利用した方がエネルギー効率は良くなる。
EU政府は脱炭素化とエネルギー転換のために「エネルギー効率を上げること」を目標の一つに掲げているが、上記のとおり、グリーン水素の場合でもブルー水素の場合でも、エネルギー効率においては目標と正反対のことが起こる。エネルギー効率が悪いということは、同じ結果を得るためには、よりコストを掛ける必要が生ずる、ということである。
ヨーロピアン・サイエンティストは、化学と物理学の基本的な概念により、水の電気分解がメタン改質による水素生産に取って代わる可能性はない、とする結論を述べている。さらに、「EU水素戦略は、政治的なイデオロギーが科学的知識に取って代わるときに起こる事象」である、としており、これについては後術する。彼らは最終的に、「グリーン水素を燃やすのは、加熱のためにルイ・ヴィトンのハンドバッグを燃やすのと同等の(コストを掛けエネルギー効率を無視した)行為だ」と辛辣に結論づけている。
その他、様々な科学的分析と考察から一貫して懐疑論を継続しているが、それらの詳細については下記のリンクをご参照頂きたい。
さらに、2021年5月にフランス国会に提出された報告書(科学技術評価のための議会事務所(OPECST)発行 No.25)によると、現在のEU水素戦略で2030年の目標に必要な「低炭素水素」を生産するには、新たに400基の1GW原子炉が必要、としている。報告書を提出した担当責任者は、目標の水素製造量を再生可能エネルギーだけでは満たすことは難しい、との見解を述べている。フランス政府としては、水素生成が原子力産業の活用先となることに期待を寄せている。効率を考慮した場合、1GW原子炉400基分のエネルギーを安定して供給できる太陽光と風力発電システムの設置は、現時点では現実的ではない。
また、イギリスのオックスフォードエネルギー研究所(The Oxford Institute for Energy Studies)も、水素は脱炭素化のエネルギー源として重要であることは認めつつ、現在の技術では大規模なグリーン水素の商業化は不可能で、技術の進展のためには政治や産業界全体が大規模かつ迅速に行動する必要があることを明確に示している。ただ、実現のためにどのような方法があるかについては、過去何年も議論されてきたのと同様に、具体的な解につながる方法論を示していない。
一方、産業界(石油製油所や製鉄所など)で発生する副生水素を、他に代替が難しいエネルギー源に有効利用することに対しては、欧州でも懐疑的な議論がない。こちらは非常に有望であるが、社会や産業がエネルギー転換するには、絶対量が十分とは言えないのが現状である。
欧州政府は、水素戦略実現のためには炭素取引価格の大幅な上昇が必須であることを理解し、温室効果ガス削減目標を引き上げて前倒しで進めている。炭素国境調整メカニズムやカーボンフットプリント情報開示の義務化も、代替エネルギー源の動機付けとして非常に重要な政策と位置づけ推進している。
水素の大規模なエネルギー利用の議論は過去にも何度かあり、そのどれもが総花的に始まり、そのたびに商業化の具体的な方法論で行き詰まった経緯がある。それは、化学や物理学の基本原理を考慮せずに、水素を政治的にイデオロギー化してきた歴史があるからである。
エネルギー問題に必ず内在する政治と地政学の認識
これまでのエネルギー問題が政治や地政学と関係がなかったことは、歴史上ほとんどないということは、ご理解頂けているかと考える。
EU水素戦略の唯一の目的は、気候変動に対する「脱炭素」であるとの認識が一般的であるが、一方で、欧州と水素の関係は、歴史的に見ても、エネルギーと政治もしくは地政学と深い関わりがあることを理解しておくこともまた重要である。
欧州政府がほぼ最初に水素のエネルギー利用に触れたのは、1972年の欧州委員会研究センターの報告で、これは高温の原子炉を使って水分子を破壊するという方法である。1970年代に入り、OPECが原油の価格決定権を奪取した時であり、当時、石油メジャーを抱える西欧にとって、中東の石油エネルギーは大きな政治問題であった。その後、第二次オイルショックの1979年にも、同研究センターより石油の代替燃料として水素が解決策になる趣旨の報告書が発行されている。
最近では、イラク戦争により中東地域と欧米(特にアメリカと一部西欧諸国)の関係が複雑化した2003年に、当時のアメリカのブッシュ政権と欧州政府が、「水素経済の発展に関する協定」に署名している。この協定の内容は、今でもホワイトハウスのホームページから閲覧することができる。当時の目論見では、2020年にはアメリカで多くの水素燃料が交通手段のエネルギーとして利用可能である、とされていた。しかし、その目論見は実現せず、エネルギー安全保障の「解」となったのは、化学や物理学の基本原理に反しないシェールオイルの増産であった。
これら、欧州の政治と水素の関係についても、ヨーロピアン・サイエンティストでは部分的に言及されている。
解説
欧州政府が出すグリーンディールによる様々な政策には、強調される気候変動や環境対策が、必ずしも最も重要な目的でない場合がある。そのため、政策をそのまま鵜呑みにしてその方向性に進んでいくのは、危険な場合もあることを認識すべきであると考えられる。
ただし、欧州政府はそれらの政策をグローバルスタンダードにしていくためのロジックと戦術に長けているため、背景にある意図を理解することはなかなか難しい。
本サイトでは、そうした背景や意図を十分に考慮しながら解説を続けていく予定である。
【参考資料】
EU政府による水素戦略
ヨーロピアン・サイエンティストによるEU水素戦略に関する見解
フランスOPECST発行 No.25を伝えるNuclear Engineering Internationalの記事